韓国ドラマ「チャン・オクチョン、愛に生きる」のイ・スン、トンピョン君、ボクソン君の人物相関図です
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第16代王 仁祖 | 仁烈王后 | 大王大后チョ氏 | 貴人 趙氏 |
1595-1649 | 1594-1635 | 1624-1688 | ?-1651 |
在位1623-1649 | 仁祖の正妃 | 莊烈王后(繼妃) | 仁祖の後宮 |
↓ | 子供はなし | ↓ | |
昭顯世子 | 第17大王 孝宗 | 麟坪大君 | 崇善君 |
仁祖・仁烈王后 | 仁祖・仁烈王后 | 仁祖・仁烈王后 | 仁祖・貴人趙氏 |
の長男 | の次男 | の三男 | の長男 |
1612-1645 | 1619-1659 | 1622-1658 | ?-1690 |
在位1649-1659 | 孝宗の異母弟 | ||
↓ | ↓ | ↓ | |
明聖王后 | 第18代王 顯宗 | 福善君 | 東平君 李杭 |
顯宗の后 | 孝宗の長男 | 麟坪大君の次男 | 崇善君の息子 |
1642-1683 | 1641-1674 | ?-1680 | ?-1701 |
第19代王 肅宗 | 明安公主 | ||
顯宗・明聖王后 | 顯宗・明聖王后 | ||
の長男 | の三女 | ||
1661-1701 | 1667-1687 |
☆「チャン・オクチョン、愛に生きる」の中では7話に登場した謀反事件「庚申換局 경신환국」
歴史上、伝わっているお話とドラマのシーンはすこし違うように表現されていますね。
☆1680年(肅宗 6) 南人が大挙失脚して政権で退いた事件.
庚申大黜陟とも言って,この事件で西人が勢力を伸ばした.1674年(燎宗 15) 礼訟での勝利で政権を掌握した南人は顯宗に引き続き王位に上がった肅宗からは信任を得ることができなかった.これは南人どうし清南 ·濁南で割れてお互いに争って,一方では権力を掌握した勢力に対する嫌気のためだった.
1680年 3月当時南人の領主や領議政であるホ・ソク(許積)の家に彼の祖父ホ・ジャム(許潜)のための延諡宴(諡号を受けたところ対する宴)があった.この時、今度の宴会に兵判キム・ソクジュ(金錫冑),肅宗のしゅうとである光城府院君 キム・マンギ(金万基)を独走であり,ホ・ソクの庶子 キョン(堅)は武士を待ち伏せさせるというデマが広がった.キム・ソクジュは言い訳をして不参してキム・マンギだけ参加した.その日、雨が降ると肅宗は宮の中で使う竜鳳遮日(油を塗って水が漏れないようにした天幕)を送ろうと思ったがもうホ・ソクが持って行った後だった.肅宗は怒ってホ・ソクの家を偵察するようにしたが南人はすべて集まったが西人はキム・マンギ ·シン・ヨチォル(申汝哲) など何人かだけだった.ここに肅宗は鉄原に流刑になって行ったキム・スハン(金寿恒)を呼んで領議政を三考,朝廷の要職を皆、西人に変える一方,吏曹判書イ・ウォンジョン(李元禎)の官爵を削奪して門外で追い出しなさいと言った.
来月の 4月鄭元老の告変でホ・ギョン(許堅)の逆謨が摘発された.いわゆる ‘三福之変’で,仁祖の孫であるボクチャン君(福昌君)、ボクソン君(福善君)、ボクピョン君(福平君) 3兄弟がホ・ギョンと結託して逆謨したというのだ.その内容はホ・ギョンがボクソン君を見て “王が身が弱くて,兄弟も息子もいないのに万がいち不幸な事が生じる日には大鑑が王位を引き継ぐ後継者になるはずです.この時、もし西人らがイムソン君(臨城君)を推戴したら大鑑のために兵力で裏付けなさい” というとボクソン君はどんな言葉もいわなかったっと言うのだった.
これらは皆つかまって来て拷問のあげく処刑されたし、ホ・ギョン、ボクチャン君、ボクソン君などは流刑になって行ってから再び捕まって死に、ホ・ギョンの父ホ・ジョクは初めにはその事実が分からなかったと言って死を兔れたが,後に悪子を掩護したと言って殺された.こういうわけで南人は完全に沒落して西人たちが得勢し始めた.ら♪